真綿の歳時記

明治未(ひつじ)年生まれの祖母は、大正の未(ひつじ)年にひとり娘を産み、そのひとり娘は昭和の未(ひつじ)年に第一子の長女を産んだ。紙類(お札)を食い尽くす直系女三代が揃い、三年後戌(いぬ)年、誰もが跡取りの男児をとの期待を裏切って、黒光りする玉のような女子があらわれ、しかしその二年後丑(うし)年、母はみごとに商家の四代目を産んでみせた。

犬のようによく吠えると言われ続けた(弁が立つ)次女の私に向かっては、父はよく「お○○○○がついてなくて、生まれた時はガッカリした」と言ったが、その顔は慈愛に溢れていたし、私もいじけるどころか褒め愛でられて、ざまあ見ろと得意げな気分だった。幼子三人、祖父母父母おとな四人の懐でぬくぬくと、実際とても厚着をさせられて育った。

毛糸のパンツとゴム編みの腹巻は「芝本の毛糸屋」製で年中着用させられ、「コホッ」とでも咳ひとつしようものなら、背中にはいつのまにか「背負い真綿(まわた)」がしのびこんでいた。母の子育て方針は「無理をさせない」ことだった。

出来合いの製品がまだ充実していない時代、売られているものは手作りするための材料や道具。夜具の仕立ても各家庭の季節ごとの行事だった。しかし綿の打ち直しは専門業者に頼んでいたようで、届けられて部屋の片隅にうずたかく置かれたままの待機中は、しばし体当たりできる子どもの遊具になった。


居間いっぱいを使って、祖母と母の布団づくりの日がきた。一日で綿入れを仕上げるためには、数日前からの布団側の洗いや縫い合わせの準備が必要だったはずだ。

遊びにも行かないで、この次女はその光景を眺めていた。とりわけ「真綿やさかい、ええでェ、ちよちゃん」と、祖母のことばを受けて「うふふ」とうっとりしつつも、快適さの中身をこの目で見届けておくのは嬉しいことだった。夕刻近く裁縫箱の針の数をかぞえて、母たちの歳時記は閉じられた。

しかし、田舎とはいえ目抜きの商店街育ちの町っこには、「かいこ」や「まゆ」というものは、小学校の理科標本室にあり、干からびてうっすら埃がたかっているものだった。

後年になって、シルク製品扱い始めることの基盤もここにあった。「真綿製品」無しには、なんのシルク店だろうか。

関東にすみ始めて知り合いになった友人のお母さまは、養蚕農家の出身だと伺い、それなら「背負い真綿」を懐かしんでいただけるだろうと進呈した。すると、このようなものは全く知らない、見たこともないとの驚くべきお返事だった。養蚕農家にとって、製品化された「真綿製品などは高嶺の花」ということだったことを知る。貧富を知ることになった。